秀吉の事業承継は盲愛と執念

2020.11.27

私のところに営業に来られる若いビジネスマンに、意外にも父親が会社を経営しているという「後継者候補さん」は少なくありません。彼らは、なぜ、父親の会社を継がないのでしょう。「起業して、今うまくいってるから」、「親父の仕事に興味がない」、「ケンカになるのがわかっている」理由は様々です。それぞれ、息子さん以外の後継者候補がいらっしゃるようなんですが、親としてみれば、やはり実子である息子や娘に継いでほしいと願うものではないでしょうか。

実子相伝(じっしそうでん)

息子や娘でなくとも、優秀な娘婿と二人三脚でうまくやってるケースもありますし、社員が継いでいくケース、あとはM&Aで会社も社員も幸せになることもあります。親として子供に継がせたいのは「血」であり、自分のDNAを末代まで残したいという生物学的な要素が強く起因し、それがこだわりになります。歴史を振り返っても、世襲を実子にこだわった武将がいます。その典型が豊臣秀吉です。

 

子に恵まれなかった秀吉

あの太閤秀吉にして、恵まれなかったのが子供でした。正室のお禰(ねね)との間に子供は授からなかった。側室の間に子供を授かったがすぐに死んでしまう。一度だけではなく何度も。とうとう実子の世襲は諦めて、養子にとった甥の秀次(ひでつぐ)に世襲を決めるのです。

ところが、その後、めでたく子供(秀頼)を授かるのです。これに喜んだ秀吉は、なんとか一度世襲を決めた秀次に諦めてほしいと願うのですが、いったん渡したものを取り上げるのは具合がよろしくない。そこで、秀次に娘ができたら、娘と我が子秀頼を結婚させ、秀頼に世襲を移そうと考えました。

 

太閤秀吉の裏の顔

ただ、秀吉がそう考えても、秀次が納得しないと始まらない。納得したからといって、秀吉の相続は、秀次と秀頼が揉める事は容易に想像できます。この騒動の源泉を今、摘み取っておく必要があると、秀吉は考えました。

秀吉は我が子秀頼への盲愛が優先しました。そして、なんと秀吉は秀次からむりやり関白職を取り上げ、追放(自害)してしまいます。それだけならまだしも、秀次の正室・側室、そして、秀次の子供ら全員(総勢39人)を京都の三条河原町で葬ったのです。はっきり言って、無茶苦茶してます。この時代は世襲のためなら、なんでもやった時代なんでしょうが、理解に苦しみます。秀吉の思いとしては、苦労して足軽からここまで成し遂げた豊臣家を「自分の息子以外には渡せない」という執念だったのでしょう。

 

家督を継ぐのは大事業

しかし、よく考えるとこの時代、家督争いの火種を放置すると、応仁の乱を例に取るように、11年も続く戦争に発展する危険をはらんでいるのです。法が整備されていないこの時代、言って聞かせて、あとは良きに計らえでは収拾がつかないくらい人間のエゴが蔓延っていたんでしょう。家督を継がせるというのを思えば、虐殺になるほどの大事業だったのですね。今は、後継者がいても継がないとか、継がせないとか、昔に比べると、まぁなんとも皮肉な話です。

 

受けた恩を子に返す

ただ、これだけだと、いかにも秀吉の盲執と残虐性が浮き彫りになり、そこだけが原因だったと受け取られますが、これには別の要因があったと思われます。

この時、多くの豊臣大名がほとんど抵抗なく、秀吉のこの措置を受け入れている点との関わりです。確かに絶対的な権力を持っている秀吉に逆らうことはできない側面はあったと思われますが、豊臣大名のほとんどは、秀吉自身から恩顧を受けていたという点です。

つまり、「恩を受けた人の子に対しては奉公する」という側面が色濃くあったと考えられます。世襲の必然性と言った場合、この点は重要ではないでしょうか。

 

後継者は感謝しよう

必ずしも大名などの例だけではなく、現代の企業においてもこの点は共通する部分があるのではないでしょうか。先代から受けた恩を、世襲された子供に返していくという、ある種、浪花節かもしれませんが、そういう考えは日本人の根底にあるように思えます。ここで気を付けないといけないのが、世襲された子(後継者)が恩を施した親に感謝し、恩を返してくれている古参社員のみなさんに感謝しなければいけません。そこで後継者が踏ん反り返って、威張り倒したら恩もへったくれもないでしょう。