2020.07.29
多くの後継者は結果を出して認められたい。
不動の地位を確かにしたい。
そんな気持ちで満たされています。
もちろん、先代や役員、兄弟のコミュニケーションがうまく取れて、事業承継計画が順調に進んでる場合は例外です。
特に注意したいのは先代から後継者に代表取締役の肩書きが動いた後が危険です。
株主総会で役員改選が承認され、取締役会で代表取締役として正式決定されます。
法務局に登記がなされ、代表取締役社長と記載された名刺が渡され、社内でも社長と呼ばれます。
また時待たずして、金融機関や取引先が挨拶に来られ、名実ともに社長の実感を感じます。
ちょっと待ってください。
株はどうなってますか。
多くの場合は肩書きは移動できても、株はそのままになっている場合が多いのです。
過半数の株を持っていないと「決められない社長」と同じなのです。
待つ事の難しさ
事業承継をリレーのバトンに例える専門家が多いですが、中には事業承継は短距離ではなく長距離なので駅伝の襷(たすき)に例える方も見かけます。
継なげるという意味では同じなのですが、私は継なげ方に重要な意味と課題があると思っていて、バトンにしても襷にしても瞬間移動では問題が残されてしまう。
つまり継なげたものをある一定時間伴走する必要があると感じております。
私は事業承継を「信号機のない横断歩道」と伝えています。
どちらかというと、少し前に先代社長が先導して後継者がついていく感じです。
信号機のない横断歩道ですので左右から車が走って来るのをうまく避けながら会社経営という歩道を横断します。
そして二人で渡り切ったら、後継者は一人で歩み続けます。
先代社長は「ハッピーリタイア」に向けた独自の道を歩んでいきます。
これが私の考える信号機のない横断歩道です。
なぜ伴走期間が重要か
私の失敗した例を参考にしてみたいと思います。
2012年6月定時株主総会で役員の改選が行われ承認されました。
翌週の取締役会で私が代表取締役に決定され、親である先代社長は代表権のない会長に就任しました。
その時、私の所信表明で先代と経営方針が違うという理由で大乱闘が始まりました。
私も冷静に対応すればよかったのですが、先代の私に対する人格を全否定するような発言には歯止めが効かない状態でした。
その結果、力づくで先代を会社から追いやり、先代も自ら子会社に出向いて行きました。
その日から5年。
顔も合わさず、口もきかない。
修正のきかなくなった亀裂は段々と深みが増し、無理やり奪い取った経営権に恥じない結果を残したいと思いました。
するとどうでしょう。役員と私の間に大きな乖離が始まります。
注意や指導する人間なんてこの世に存在しません。
私の未熟な判断はどんどん深みに入っていき、役員との軋轢や投資など数々の失敗をしてしまうことになるのです。
私の信号機のない横断歩道でいうと、
横断歩道を渡る前に親を突き飛ばして、
自分一人で渡れると豪語して渡り始めて間も無く、
左右から来る車を慌てて避けながら進んで行きますが、
とうとう右から猛スピードで突っ込んできた車に跳ねられます。
意識を失いかけてピクピクと震えながら懸命にドライバーの姿を確認すると、
なんと、そのドライバーは勝ち誇った親である先代だったという笑えない話です。
追い出していい気になっていたら数年後、
役員を伴って株主総会に現れて、解任動議を出してきたという内容を信号のない横断歩道に例えてみました。
後継者の皆さんは社長になる前は専務取締役であったり、
副社長であったり、管理部長という肩書きがついているかもしれません。
しかし、肩書きだけの違いかもしれませんが、社長の肩書きはその他のどれとも重さが違います。
発言する内容も社長がするのと、その他役員がするのでは責任の重さが違います。
ですから、代表交代してもすぐにその重さに気づく事はないですから、
ここは耐え忍んで自分が成長するまで待つことが重要です。
もう一つ、待つ事が重要な意味ですが、親である先代の寂しさを徐々に緩和する重要な期間なのです。
代表交代して、後継者が手腕を発揮する姿を見て誇らしく思うのを嫉んだ考えを持ってしまうのは滑稽な事でも珍しい事でもありません。自分の居場所がなくなってしまうと感じ、先代としては子供や社員に棄てられたと感じるのです。
子供である後継者が社長になるや否や急に路線を変更して親子の対立が目立つのは、先代の過去の実績を子供から否定される寂しさを感じているのではないでしょうか。
瞬間移動ではなく伴走移動が必要です。
後継者の歯がゆい気持ち
しかし、後継者としてはいつ来るやわからない本当の意味での代表交代をひたすら待ち続けるのは相当な精神力が必要です。
だから後継者の多くは焦ったり、迷ったり、目処も立っていないのに行動を起こしたり、目先の功名に走ったりする。
後継者の本心は、先代社長と伴走する事は周りの社員や取引先から見れば「雇われ社長」」「言いなり社長」と映っているのではないかと煙ったく思ってしまうものです。
時には、社長としての意見が先代に否定されて恥をかいたり、役員会では先代の独演会になっていたり後継者のストレスは毎日積み重なっていつか爆発しそうです。
私の最大のストレスは「決めさせてもらえない」でした。
意思決定が社長の仕事であり、その意思決定の場数をこなす事で社長として成長できると信じていたからそれを拒否されるのは耐え難い屈辱でした。
でも、これは会社を辞めた後に気が付いたことなのですが、「決めさせてもらえない」のではなく、
先代が最終決断することで単純に安心感が欲しかったのだと気づきました。
細かな分析や情報は若い後継者には勝てません、そのことを知ってる先代はその情報を知った上で全体の意見を聞いて「最終決定」をしている。後継者の「代弁」と「仕上げ」をしているに過ぎません。
昔から長く親子で経営している散髪屋がそれです。
息子の方が最近の流行の知識も豊富で腕もいい。カルテも作って管理しているので忘れたり新規のお客さんへの粗相がない。
息子が手際よくチャチャチャと仕事を進めて、仕上がる頃合いを見計らって、後ろの方で新聞読んでた先代が、よっこらしょと出てきて全体の仕上がりを眺めて毛先を数本チョキチョキと切り揃えて、「はい、お疲れさま」と声をかける。
この感覚が重要なんです。
一見効率的でないと思える先代の行動ですが、長いあいだ城を守ってきたのは先代です。今でも常連さんがきてくれるのも先代の功績です。
今思うと最低でも5年間、自分の思いを封印すれば状況は変わっていたと思います。
理不尽でもまだ株が過半数自分の元へ移動していないのなら、
5年間は試練だと思って待つことです。次のことはその時考えてもいいと思います。
徳川家康もじっと待った。
江戸幕府260年の基盤を築き上げた初代将軍・徳川家康ですが、その生い立ちはけっして恵まれたものではありませんでした。
家康をホトトギスで評した有名な句があります。
「泣かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」
確かに家康は待つことで天下を手中にした。
信長や秀吉が積極的に天下獲りの意思を示して、精力的に活動したのに対し、家康は人生の終盤まで、そういう野心は見せずに、第二走者、第三走者の位置で待っていたのです。
松平家に生まれた家康は今川家と織田家の人質として往来した屈辱の幼少期でした。
後に今川家の臣従を見限り、織田家と同盟を結びます。
ここでも織田家の東の武田に対する壁となり、積極的に前に出ません。
世の中は自分が動かなくても周りが変わる、そのことを家康は知っていたのでしょう。
本能寺の変で信長が自刃し、世の中が変わりだします。
ここでも動きません。
秀吉の時代が到来するのを横目にじっと待ちます。
秀吉の逝去で機の到来を受け長かった沈黙を破ります。
長い長い沈黙を待って天下を手中にしました。
チャンスは向こうからやってくる
自然や物理には不変の法則があります。
しかし、人間の行いや感情は可変の連続です。
この複雑なシステムの中で感じる矛盾というのが、積極的に効率よく動いても思った通りの結果を得ることは稀であるということ。これを化学的に証明することは不可能なのですが、思いもしなかった朗報が飛び込んでくることはよくあります。
叶わない想いが「ある日突然電話がかかってきて」とか「代役で急に依頼があって」というケースは山のように例はある。
数年前に流行った「引き寄せ系」は興味がないのですが、淡々と今できることを着実に積み重ねて行けば、いつかチャンスは巡り人生の転機になると思います。
そのいつか訪れるチャンスのために「今やれること」を少しづつ積み重ねていきましょう。
風が吹けば桶屋が儲かる理論の変形を少し紹介します。
先代に不満を持つ後継者は会社で悶々と日々を送っています。
そんな時、後継者不在の取引先でM&Aの話が浮上しました。
その事業を後継者が担当することになりました。
その事業は軌道に乗ってどんどん成長します。
やがてその事業は本業の売り上げを抜き上場を果たす勢いまで成長しました。
実際にあった話です。
人生、何があるかわかりません。
先代の寂しい思いも忘れてはいけません。
じっくり待つが重要です。